お気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、トップページに当教会メンバーの「私がクリスチャンになった理由」が掲載されました。
同じ神さまを信じ、集まっているメンバーですが、神様との出会い方は人それぞれです。
親がクリスチャンだった人、友だちがクリスチャンだった人、自分で探し求めてきた人…
まだ教会に行ったことのない方にとっても参考になるかと思いますのでぜひご一読ください。
今日は70代主婦の方の記事をご紹介します!
「友人に誘われ教会の礼拝に、語られるメッセージで自分中心に生きていたことに気づかされ」(70代主婦)
私の生家は、大分県別府市にあり、曹洞宗に属しておりました。両親は大変信心深く、仏壇に手を合わせる毎日でした。近くにカトリックの教会はありましたが、神父さん、ステンドグラスがきれいだなぁという印象があり、その前庭で遊んだ記憶がある程度です。長じて宗教全般に対しては、全くと言っていいほど、無関心な者でした。やがて結婚し、二人の子どもが生まれ、幸せな毎日を送っていました。しかし、主人は仕事が大変忙しく、休日も公私にわたって仕事に邁進していましたので、週末に家にいるのは年に一回ということもありました。ですので、週末になると暇をもてあまし、近所に住むクリスチャンの友人に誘われ、一度教会の礼拝へ行ってみることにしました。三十八歳の時でした。
教会には、同世代の子どもを持つ婦人たちが多くおられたので、私も子どもたちもただ楽しいから…ということだけで、教会へ続けて通うようになりました。しかし、続けて通ううちに、牧師先生を通して語られる聖書のメッセージを通して、神様は、人間を含むすべてのものを創造し、支配しておられること。また、すべての人は生まれながらにして罪の性質をもっており、創造主なる神様に背を向け、自分中心の生き方をしています。そして、その罪の故に、人は皆、死ぬこと、また死後に裁きを受けることが定まっていることを知りました。しかし、イエス・キリスト様はそんな私たちを罪とその裁きから救うために、十字架にかかり、死なれ、三日目に復活されたことを知りました。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネの福音書 三章十六節
私はイエスキリスト様を自分の救い主として、信じ、受け入れました。罪赦され、永遠のいのちを頂いて、神様のおられる天国で永遠に生きることできます。聖書は普通の本ではなく、神様の生きたことば、生活の土台、信頼に値するものであります。昨今頻発している自然災害、予測できない事故等、絶対に安全と言える場所はどこにもないのです。しかし、創造主であり、私のことを愛し、いつも共にいて下さるイエス様と共に歩むなら、真の安心が与えられ、平安な毎日を送ることができるのです。
「わたしはあなたがたに平安を残します。
わたしの平安を与えます。
わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。
あなたがたは心を騒がせてはなりません。」
ヨハネの福音書十四章二十七節